Marina Abramović: The Artist Is Present
山崎広太

MoMAでやっているMarina Abramovicの回顧展を見てきました。最初に思ったこと。何で平日の昼間なのに、こんなにお客さんが多いのだろう。やはり、MoMAは観光名所なんでしょうね。2階に上がった瞬間。何か、ただ事ならぬ雰囲気が伝わってきました。広い空間に、映画によく使う太陽の光のライティングの中で、二人の人間が向き合って、見つめ合っていました。その一人は、本人のMarinaでした。一瞬、何もしない身体の強さを感じたけど、僕たちはMariana本人そっちのけで、未奈の友人のWillが参加しているということで、早くそれが見たくて見たくて、6階に駆け込みました。そして、Willを見つけました。裸で骸骨を上にのせ、瞬きさえせずじっとしていました。何を見ているのか解らない彼の視線が、少し怖かった。その目のみが、流れている水を感じさせたからです。それ以外は、まったくの物体でした。身体が、Marinaのことを伝えるための、ただ道具のようにも感じました。Willの目はそれを伝えている、虚空の寂しさのようにも感じました。
周りの映像も、陰気臭く、女性器を執拗に晒したり、繰り返したりする映像ばかりで、見たくない物ばかり。あるダンサーは、真っ裸で、身動きせず、象徴的に天を仰いでいるように手を広げ、尚かつ宙づりのようにされている。こういう時ほど、生活の苦しいダンサーは、かき集められ活躍します。裸になるのも平気だし。何人も見たことのあるダンサーが参加していました。1時間半を3コースで、一日110ドルの報酬。内心、仕事があっていいな~とさえ思ってしまうほどのNYの経済状況。ダンサー達、お金のためだろうけど、可哀想だなとも思ってしまう。
女性二人が、至近距離で向かい合い真っ裸で立っている、そして、その隙間を観客が一人ずつ通る作品(?)というかほとんどアトラクション。男性的には、ちょっとレアな体験で嬉しいけど、それに何の意味があるのだろう?? ほとんどの作品は、オリジナルはMarinaと彼女のかつてのパートナーによって行なわれていた。その必然性を観客は感じる。ここに身体を扱うことの重要なミソがあると思う。お客さんは、ダンス、美術がどうのこうのというのではなく、身体の場合は、その人個人を見ようとするんだと思う。本人ではなく、集められた若い男女の身体によって、彼女たちがかつてやった行為が再演される……という状況は、一体何の饗宴なのか? 普遍化する過程で、作品の本質に近いものが失われる可能性もあるのでは? 全体に見て、個人的には、好きでなかった。身体の扱いがシンボリック以外なにものでもないし、何よりも、インスタレーションのセッティングがデリカシーに欠けていた。
一つ、個人的に面白い映像があった。それは上から撮っている映像で、丸い空間の中の壁側にお客さん含め、佇んでいるんだけど、誰がパフォーマーで誰が、お客さんなのか解らない状況になっていて。もちろん、お客さんは、出入り自由。それぞれが、waitingしたり、センターに佇んだり。これは、僕にとって、もっとも興味のあることの一つである。日常の中に、何がアートで何がアートでないか、それぞれに委ねさせ感じさせること、または何を見ているのか不安にさせること。ごく普通の、地下鉄、デパート、交差する横断歩道、学校など、日常の中に、そのようなことはいくらでもある。それをアートの延長として、探ること、意識化すること。日常の中に、隠れた異空間があることを、気づく人は気づき、気づかない人は気づかないように、状況を意図的にセッティングすることにとても興味を持っている。その一つが、透明なサイトスぺシフィックでもある。これは僕にとっての、今後の刺激的な課題である。
それと先週、ホイットニー・ビエンナーレなどを見ても、身体を使ったアートが今年はものすごく多かった。それを思うと、来てるよ来てるよ~身体って感じで。実際身体を使っているダンスアーティスト側からこの状況を見ると、美術の世界から、ダンス側に、お前達ちゃんと身体のこと見つめているのかと、拍車を掛けられているようにも感じる。ダンス側からの、確かなる身体に対するアプローチの必要も感じてしまう。
[やまざき・こうた|振付家・ダンサー]

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● Marina Abramovic: The Artist Is Present
March 14―May 31, 2010 at MoMA

MoMAでやっているMarina Abramovicの回顧展を見てきました。最初に思ったこと。何で平日の昼間なのに、こんなにお客さんが多いのだろう。やはり、MoMAは観光名所なんでしょうね。2階に上がった瞬間。何か、ただ事ならぬ雰囲気が伝わってきました。広い空間に、映画によく使う太陽の光のライティングの中で、二人の人間が向き合って、見つめ合っていました。その一人は、本人のMarinaでした。一瞬、何もしない身体の強さを感じたけど、僕たちはMariana本人そっちのけで、未奈の友人のWillが参加しているということで、早くそれが見たくて見たくて、6階に駆け込みました。そして、Willを見つけました。裸で骸骨を上にのせ、瞬きさえせずじっとしていました。何を見ているのか解らない彼の視線が、少し怖かった。その目のみが、流れている水を感じさせたからです。それ以外は、まったくの物体でした。身体が、Marinaのことを伝えるための、ただ道具のようにも感じました。Willの目はそれを伝えている、虚空の寂しさのようにも感じました。
周りの映像も、陰気臭く、女性器を執拗に晒したり、繰り返したりする映像ばかりで、見たくない物ばかり。あるダンサーは、真っ裸で、身動きせず、象徴的に天を仰いでいるように手を広げ、尚かつ宙づりのようにされている。こういう時ほど、生活の苦しいダンサーは、かき集められ活躍します。裸になるのも平気だし。何人も見たことのあるダンサーが参加していました。1時間半を3コースで、一日110ドルの報酬。内心、仕事があっていいな~とさえ思ってしまうほどのNYの経済状況。ダンサー達、お金のためだろうけど、可哀想だなとも思ってしまう。
女性二人が、至近距離で向かい合い真っ裸で立っている、そして、その隙間を観客が一人ずつ通る作品(?)というかほとんどアトラクション。男性的には、ちょっとレアな体験で嬉しいけど、それに何の意味があるのだろう?? ほとんどの作品は、オリジナルはMarinaと彼女のかつてのパートナーによって行なわれていた。その必然性を観客は感じる。ここに身体を扱うことの重要なミソがあると思う。お客さんは、ダンス、美術がどうのこうのというのではなく、身体の場合は、その人個人を見ようとするんだと思う。本人ではなく、集められた若い男女の身体によって、彼女たちがかつてやった行為が再演される……という状況は、一体何の饗宴なのか? 普遍化する過程で、作品の本質に近いものが失われる可能性もあるのでは? 全体に見て、個人的には、好きでなかった。身体の扱いがシンボリック以外なにものでもないし、何よりも、インスタレーションのセッティングがデリカシーに欠けていた。
一つ、個人的に面白い映像があった。それは上から撮っている映像で、丸い空間の中の壁側にお客さん含め、佇んでいるんだけど、誰がパフォーマーで誰が、お客さんなのか解らない状況になっていて。もちろん、お客さんは、出入り自由。それぞれが、waitingしたり、センターに佇んだり。これは、僕にとって、もっとも興味のあることの一つである。日常の中に、何がアートで何がアートでないか、それぞれに委ねさせ感じさせること、または何を見ているのか不安にさせること。ごく普通の、地下鉄、デパート、交差する横断歩道、学校など、日常の中に、そのようなことはいくらでもある。それをアートの延長として、探ること、意識化すること。日常の中に、隠れた異空間があることを、気づく人は気づき、気づかない人は気づかないように、状況を意図的にセッティングすることにとても興味を持っている。その一つが、透明なサイトスぺシフィックでもある。これは僕にとっての、今後の刺激的な課題である。
それと先週、ホイットニー・ビエンナーレなどを見ても、身体を使ったアートが今年はものすごく多かった。それを思うと、来てるよ来てるよ~身体って感じで。実際身体を使っているダンスアーティスト側からこの状況を見ると、美術の世界から、ダンス側に、お前達ちゃんと身体のこと見つめているのかと、拍車を掛けられているようにも感じる。ダンス側からの、確かなる身体に対するアプローチの必要も感じてしまう。
[やまざき・こうた|振付家・ダンサー]

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● Marina Abramovic: The Artist Is Present
March 14―May 31, 2010 at MoMA
by bodyartslab
| 2010-05-23 00:00
| Essay